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熱伝導

最初に「ん?」と思ったのは、椹木野衣と中森明夫の熱に浮かされたようなツイートだった。そのあと、米光一成が「じじいがすごいことをガツンとやった!」とレビューしてたり、井口昇が激賞してたりしたのを知り「ん?ん?」と思ってたら、ツイッター上で次々と興奮冷めやらぬといった感じのつぶやきが増えてきた。何、何? 何なの? 何なのよー? 俺もその興奮の理由が知りたいっ。でも、ツイートを読んでも何のことやらさっぱりわからない。てことは、観るしかないか。結局、人を動かすのは、ロジカルな批評や魅力的なレビュー以前に、わけのわからない興奮だったりするんだな。
ということで、先週末にいってきました。大林宣彦監督の最新作にして問題作『この空の花 長岡花火物語』。
なるほど、これは説明しようがない映画だわ。描かれているのは、ふるさとだったり家族だったり戦争だったり震災だったりするんだけど、そう簡単にまとめられるようなものじゃないし、そんな一見わかりやすそうなテーマから想像されるような心に沁みる「いい映画」って感じでもなくて、むしろ「唖然」とか「びっくり」とかのほうが近い。泣けるとか笑えるとかを超えちゃって、喜怒哀楽のカオス、強い力で頭ん中をシャッフルされるような感覚で、そりゃあもう大騒ぎだ。「ぶっ飛んでる」なんて便利な言葉があるけど、「想像通りぶっ飛んでた」なんてのはまだまだぶっ飛んじゃいないわけで、想像をあさっての方向から超えてくるから、どう受け止めたらいいかわからない。まいったなあ。観たあとでも、結局何だかわからない。
ストーリーやら演技やら映像なんかについて語ろうにも、違和感ありまくりの展開やセリフやシーンがシャワーのようにめまぐるしく繰り出され、とてもじゃないが説明しきれないし、説明したところでわかってもらえる気がしない。というか、映画を評するような言葉では回収できないわけのわからなさの中に渦巻いている、ありったけをぶち込んでかき回したような過剰さや、いびつさをそのまま呑み込んで蹴散らしちゃうようなテンションこそが、この映画のすごさなわけで、振り切れちゃってるというか、やり過ぎちゃってるというか、どこをとってもただごとじゃない本気汁がみなぎっている。そのただごとじゃなさってのは、どうしたって観ないとわからないじゃん。だからごめん、やっぱり説明できないよ。
ただわかるのは、観た人はみんなこの本気の熱量にやられちゃったんだろうなということ。細馬宏通は「『この空の花』をみるととりつかれる多弁」ってなことを言っていたけど、まさにそんな感じで、俺も取り憑かれたかのごとくツイッターであれこれ連投しちまった。いや、これほど観終わったあとで人と語りたくなる映画も珍しいよ。大林監督の気のふれたような熱量が、観客の頭と心を揺さぶっちゃうんだろうな。別に「本気だからいいんだ」ってな精神論で言ってるわけじゃないんだけど、人が何かに夢中になっている、本気になっているという熱は、表現の中にこうやって表れるってことだ。そして、その熱に当てられちゃった人たちが、映画館を出たあと興奮した口ぶりでつぶやき始める。「何だかわからないけど、すげーよ」と。その興奮の熱量が伝染し、また別の人を映画館へと向かわせる。今、ツイッター上で起きていることは、そういうことだと思うし、人を動かすのはやっぱり本気の熱量なんだと改めて思った次第。

5月の風に溶けていくように [レビュー]

この間、DVDで観た映画がすごくよかったんで、感想を。
『按摩と女』清水宏監督(1938年)。
何年か前に公開された草彅剛主演の『山のあなた』は、この作品のリメイク。草彅くんのほうは未見だけど、本家のほうは戦前の作品でモノクロ。白黒なのに、目に沁みるようなみずみずしい新緑を感じさせるのがすごい。どこにもそんなセリフはないけど、ああ5月の映画だなあ、と思ったね。
冒頭、お喋りしながら山道を歩く二人の按摩の姿を、正面から捉えたゆるやかな移動撮影から、もう引き込まれる。姿を途切れることない山道、途切れることないおしゃべり、途切れることないカメラ。そのカメラが揺らぎ、馬車に乗った女を切り返しで捉えるとき、目の見えない按摩の心もクラっと揺れる。「いい女が乗ってたねえ。東京の女だよ。東京の匂いがしたよ」。ああ、上手いなあ。白粉の匂いだろうか。この按摩と女は、このあと逗留先の温泉宿で再び出会うことになる。
主人公の按摩が温泉町の通りにて、この女を「鼻で」見つけるシーンも素晴らしい。彼女にフォーカスを当て背景をぼかした撮影がなされているんだけど、そこだけ違う匂いがする感じなんだよね。で、女がすーっと去っていくと彼女の輪郭は背景に溶けてしまう。匂いがすうーっと消えていくように。ああ、上手いなあ。こんな風にして、按摩は女にひかれながら付かず離れずの距離でうろうろし続ける。ちなみに、このヒロインは高峰三枝子。きれいだなあ。
そして、舞台が山深い温泉町ってのがいい。こーゆーところでゆっくりしたいなあ、って気分になる。浴衣姿で町をぶらついちゃったりしてさ。俺、温泉地って好きなのよ。町自体が映画のセットみたいでしょ。この映画に出てくる温泉宿がセットかどうかはわからないけど、夜の橋のシーンなんかを見ると、セットっぽいよね。
この橋や狭い路地を正面から捉えた縦の構図、滝や川などの自然の端っこに人物を配した構図のヌケのよさ。風景に開かれているっつうかさ。宿をゆるゆると舐めていくカメラからは、温泉場のゆったりとした時間の流れが伝わってくる。いい季節だもんで、外に面した二階の戸が開け放たれているんだよね。で、通りを挟んだ向いの宿の部屋が見える。この風通しのよさも、いかにも温泉宿だ。人が訪れて、また去っていく。一時滞在場所としての、風通しのよさ。
旅人としてすれ違うだけの場所だから、恋や事件があっても、せせらぎやそよ風のようなサラサラとしたタッチで描かれる。そこに、人が出会い別れるという淡い切なさがちらりちらりとひるがえり、移ろいゆく季節の詩情がふわっと匂う。季節変わりの雨だろうか。ラストシーンの雨の匂いを嗅いで欲しい。いや、映画だから嗅げやしないんだけど、按摩が鼻で女と出会ったときのように、ふわっと匂うんだよ。
でも、匂いははかない。すーっと消えていく。すべては移ろい流れていく。そのかすかな痕跡を静かに見つめる。そんな映画だった。

踊るのではなく踊らせるのだ

本日、ここにお集まりの皆さんは、「クラブ」というものをご存知でしょうか?
ご存じない方のためにご説明させていただくとですね、
クラブと言っても学校の部活動のような健全なものではなく、
深夜に音楽を大きな音で鳴らし酒を飲みながら踊り騒ぐという、
はなはだ不健全な場を提供する店舗のことを言います。
このクラブは、今や日本全国にあり、若者たちの遊び場としてすっかり定着しております。
しかし、その実態はなかなか外部からは窺えず、
犯罪の温床となっているという噂も数多く聞いております。
そこで最近では、風営法によりこのクラブの摘発が相継いでいるという状況です。
中には、こうした動きに「踊る自由を奪うのか」などと反対の声を上げる者もいるそうですが、
まったくバカげた発言です。
踊る自由など、あるわけないではありませんか!
今こうして皆さんは私の話を静かに聞いてくださっています。
しかし、ここで誰か一人が踊り始めたらどうなるでしょう?
せっかく私の話を聞きたいと思ってる方々に、多大な迷惑を与えることとなります。
さらに、それにつられて周囲が次々と踊り始めたら、もう収拾がつかなくなってしまいます。
いいですか? 皆さんに覚えておいていただきたいのは、
踊るということは反社会的な行為だということです。
心の衝動のままに体を動かすということは、大変野蛮なことなのです。
クラブで踊る若者たちを見たことがあるでしょうか?
あそこに秩序といったものはありません。
あれで、よく文明人だと言えたものです。
彼らは、本能のままに生きているだけじゃないですか!
それでは、ただのけだものです! 畜生です!
皆さんもご存知のように、文明の根幹はルールです! 規律です! 秩序です!
これをないがしろにしてしまっては、社会は立ち行きません。
しかし、ダンスはそうしたルールに拠らず、
ひたすら己の衝動や快楽だけを解放するという、不届ききわまりないものなのです。
彼らはそうした己の解放のために、夜更かしをし、アルコールを摂取し、ドラッグにまで手を出します。
自分で自分をコントロールできなくしてまで、さらなる無秩序を目指すのです。
踊りとは、そもそもがそういうものなのです。
ですから、諸悪の根源は踊ることにあるのです!
つまり、ダンスを許すということは、秩序に従わないことを許したも同然なのです!
こんなものを野放しにしておいてはいけません!
大きな犯罪へと発展する前に、潰しておかなければなりません!
あんなものは、片端から逮捕して牢屋にぶち込めばいいんです!
これまでは、健全な一般市民の皆さんの寛大さに免じて、大目に見てやっていただけのことです。
なのにいざ摘発される始めると、自分たちの手前勝手な行為を棚に上げ、
急に不当だとか自由を返せなどと言い始める。
もう一度言います。この国に、踊る自由などない!
もはや私たちは、どんな小さな無秩序の芽も許すつもりはありません!
それを放置すれば、彼奴らは増長して当たり構わず踊り散らすに違いないからです。
そんなことになった、日本はどうなってしまうのでしょうか?
クラブに集い非行に走る無軌道な若者たち同様、
衝動のままに踊り狂い、奇声を上げ、ケンカをし、誰彼かまわず性行為に及び始めるでしょう。
皆さんは、そんな日本でお子さんを健全に育てることができるとお思いですか?
彼らは、私たちのような一般市民がひたすら我慢して我慢して大人しく大人しく従っているルールを、
自分たちの手前勝手な快楽のために、ダンスという行為で踏みにじっているのです!
彼らだけがいい思いをして楽しく踊っているなんて、どう考えても不公平です!
すべての人から踊る自由を奪わなければ、平等な社会など作れません!
皆さん、ダンスを許してはなりません!
一刻も早く、日本中のクラブを撲滅しなければならないのです!
それでも踊りたいというのであれば、私たちとて鬼ではありません。
きちんと秩序を守って踊ればよろしい。
文科省では、今年から中学校の必修科目にダンスを設定いたしました。
そこでは、我々の指導のもと振り付けに沿った健全な踊りを学んでいただきます。
右と言ったら右足を、左と言ったら左足を出す。
きをつけと言ったら、背筋を伸ばして両手を脇に揃えて下ろす。
皆がそうなれば、自然と世の中の秩序は保たれ、犯罪も減ることでしょう。
ちょっとここで練習してみましょうか。
さあ、右手を胸の前に水平に構え、一斉に斜め上にあげてください。
「ハイル、ヒ…」
いや、何でもありません。

つけヒゲ

今日はうっかり寝坊して、慌てて家を出たもんでヒゲを剃り忘れた。
まあ、普段もあごヒゲは剃らないからあんま変わんないんだけどさ。
しかし、ヒゲってのは何のためにあんのかね?
「ために」ってのも変な話だが、なくてもちーとも困らない。
てなことを考えているうちに、その無意味さが妙に愛おしく思えてきた。
世の中がヒゲだらけになったらジャマ臭くって面白いよねー、なんつって。
ヒゲ電話をヒゲ会社にかけて「ヒゲ時間までにヒゲ出社するから」と伝え、ヒゲ歩きでヒゲ駅までヒゲ急ぐ。
ああ、一気に寝坊とか遅刻とかが、どーでもいいことに思えてくる。
例えば、ニュースだってそうだ。うっとおしい話題も、ヒゲをつければまったく別の様相を呈してくる。
ヒゲ俳優によるヒゲモデルとヒゲ評論家のヒゲ交際発覚。ヒゲ会見でヒゲ泣き。
はいはい勝手にやってくれや、という感が増すでしょ。無意味の力は恐ろしい。
かくして、世界はチクチクしたものに覆われていく。
それを詩にしたのが、髭原朔太郎「髭」という作品。

 光る地面に髭が生え、
 青髭が生え、
 地下には髭の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に髭が生え、
 地上にするどく髭が生え、
 まつしぐらに髭が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに髭が生え、
 髭、髭、髭が生え。

さあ、ご一緒に。
髭、髭、髭が生え。

薄暗く塗れ! [レビュー]

岸本左知子・編訳のアンソロジー『居心地の悪い部屋』(角川書店)を読んだ。あとがきによれば、「うっすら不安な気持ちになる」「見知らぬ場所に放り出されて途方に暮れる」「なんだか落ち着かない」「居心地の悪い気分にさせられる」そんな英米短編小説を集めたとのこと。確かに、何を考えてるのかよくわからない、どこかズレている、状況や因果関係が見えない、そんなもやもやする変な話ばっかり。俺はそもそも奇妙な味とか異色作家とか言われる作品が好きなんだけど、その中でもかなりの粒ぞろい。すごく面白かった。いや、面白かったって言っちゃうと誤解されるかな。読後は何とも言えないイヤーな感じとか、どう捉えたらいいのかわからない唖然とする感じに襲われたりする。それが、たまらんのよ。

●例えば、ジュディ・バドニッツの「来訪者」という短編はこうだ。田舎の両親が訪ねてくる予定になっている一人暮らしの娘。娘は、車で向かっているはずの母親と何度も電話で話すんだけど、そのたびに両親の車はどんどん違う方へと走っているっぽい。それだけでも、何だか不安な気持ちになるでしょ。その上、母親の話は要領を得ずどうにも噛み合ない。電話口で何が起こってるかさっぱりわからないという、この隔靴掻痒感。じれじれしてきて、電話を奪って「だーかーらぁ」って叱りつけたくなる。
●例えば、ブライアン・エヴンソン「ヘベはジャリを殺す」。ジャリがヘベのまぶたを縫い合わせるシーンから始まる。ヘベが糸が眼球にこすれるのを感じるシーンがあったりして、それだけでもかなりなイヤな感じだけど、この作品の不気味さは別のところにある。タイトル通りのことが今まさに行われようとしているんだけど、会話のトーンがおかしいんだよ。どうおかしいかは書かないけど、「ああ、もお、ひと思いにブスっとやっちゃってくれよ」という気分になる。
●例えば、ジョイス・キャロル・オーツ「やあ! やってるかい!」。句点のない文章で、ジョギングをする男を長回しの移動撮影のように描写した作品。この男、ハンサムなマッチョマンで、他のジョガーとすれ違うときさもフレンドリーな調子のでかい声で「やあ! やってるかい!」と声をかけるんだよ。読んでいると、この無神経さがだんだんカンに障ってくる。くり返される「やあ! やってるかい!」の挨拶にイライラがつのり、「うるせーんだよ筋肉バカ!」と爆発しそうになる頃に急展開。「え?」と口あんぐり状態になる。
●例えば、レイ・ヴクサヴィッチ「ささやき」。っと、これはストーリーは一切紹介できないタイプの小説。鮮やかなラストに「ぎょえー」となる。
●例えば、ポール・グレノン「どう眠った?」。二人の人物の会話だけでできている短編。「どう眠った?」「スコットランドの狩猟小屋のように眠ったよ」と、彼らは何故か睡眠を建築物に例えて語るんだよ。でも、単なる比喩かと思っていたらやけに具体的で、睡眠の話か建物の話かよくわからなくなるところが可笑しい。彼らにとって、よい眠りとは素晴らしい建物であり、よくない眠りは「居心地の悪い部屋」なんだよね。そのインテリアにチラチラと引っかかるものを感じ、「ちょっと大丈夫なの?」とうっすら不吉な気分になる。

こんな感じで12編、よくもこんなヘンテコな話ばかり集めたなあと思う。ほとんど知らない作家ばかりだけど、ハズレなし。編者の岸本左知子さんの、ヘンテコアンテナの鋭さったらないね。ただただ黒い話を集めるんじゃないのよ。薄暗い妄想力とかつかみどころのない邪悪さみたいな、あわいの世界にチューニングを合わせているところがすごいんだよね。なんて不健康なアンテナ。
薄暗い部屋では目に入るちょっとした影や光がもやもやとした気持ちをかき立てる。真っ暗にしてしまえば何も見えなくなるし、電気を点ければ何でもないことがわかるだろう。でも、そうしないの。薄暗い部屋で目を凝らすんだ。そして、あれこれよからぬことを考える。そんな俺や君のためのアンソロジーだ。
おやすみなさい。今夜もどうか、イヤな眠りを。
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